生きづらさとの共存

スタッフの上村です。

 

わたしには、聴覚過敏があります。聞こえすぎる事のつらさや生きづらさを子供の頃から感じていました。成人してからは特に、周囲との摩擦がとてもつらく感じました。

わたしが誰かと対話をしている時。本を読んでいる時。周囲にいる人たち、特に小中高生徒の女子生徒の”きゃぴきゃぴした”かん高いおしゃべりを耳にするたびに、”嫌がらせ・いじめ・悪意・虐待”と強く感じていました。

ほんとうに嫌がらせだったのかもしれません。

だけど、”うるさい!!”と騒いで、SNSで悪態をついて気を紛らわさなくても、自分が耳栓をするなどの工夫をすれば、彼女たちのきゃぴきゃぴ声がそばで聞こえてきても難なくクリアできるという状況を理解して、自分の感情や気持ちを安定させる事ができるという事に気づきました。

そうしたら、彼女たちは本当に嫌がらせをしていたのか疑わしく思えてきました。

耳をしっかり傾けてみると、わたしにはほとんど関係のない内容ばかり。これを”自分への嫌がらせ”と受け取る事の方が乱暴すぎる、という事にやっと気づきました。

わたしはなんと失礼な事を周囲にしていたのかと、とても恥ずかしくなりました。

集団にも違和感なく入れるようになりました。周囲の人たちークリスチャン仲間やカウンセリング関係 の仲間たちーが、若干の場違いな発言や失言、失敗を暖かく受け入れてくれている環境で、わたしの中に心の余裕が生まれてきたのでしょうねえ。一泊研修の時も、自然にとけ込んでいる自分を発見しました。

”ああ~わたしも集団に入れるじゃない!”。そう思えるようになった時、自分がどれだけ優しい人たちに囲まれていたかもはっきりと見えるようになりました。

「失敗しないように、場違いな言動をしないように」と最新の注意をはらっていた時よりも、「ADHDの特性、まあいいかあ~」と思えるようになった今の方が、スムーズに会話がなりたっています。

 

やっとわかりました。わたしの生きづらさは、”自分を手放せた時に薄まるのだ”という事。なくなるのではなく、”共に生きていけるのだ”という事。

 

他の生きづらさも、死ぬまでになんとかなりゃ~いいだけよね~。

 

今まで、わたしの幼さゆえに不快に感じられていた方、ほんとにごめんなさい。

 

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